音楽家(特にBAND関係者)は読んでほしい

このブログは2007年5月29日にKamomeさんのブログからの引用です。

本日はお堅い話。
BAND諸君に伝えたいのでここに記することとする。

ZARDの坂井さんの死により考えたことがある。
長文であるが音楽家(特にBAND関係者)は読んでほしい。

俺は90年代の特に前半は年齢でいうと、20代といったところで、プールで毎日元気に水泳教えていた頃だ。
音楽でも23歳で上昇志向を改め、趣味志向へ転じたときで、プロへの道に嫌気がさして、挫折をし、一時期はまじめに音楽をやめようかと思った時期でもある。
バブル崩壊はリアルタイムで感じた方はわかると思うが、ゆっくりとした崩壊だった。だれも気づかないままゆっくりとゆっくりとなんとなく暗い方向へ時代が流れていった時代。

その時代の流れを象徴するかのように、95年以前までとそれ以降では音楽のセールスもガクンとその販売数に陰りが出始めていた頃にZARDは活動していた。

素人くさい唄と素人くさいメロディで、当時の音楽ツウは恐らく当時誰も認めていなかったであろう。
ただし音楽素人へ向けては(BAND音楽を探求していないという意味)
ものすごい浸透力であった。
当時全国で次々と建てられたカラオケルーム。
最初は音楽人として抵抗があった俺も、働き始めて音楽への情熱もある種の挫折を経験したことから「カラオケ」という日本文化に抵抗を感じなくなっていた。
よく同僚と朝まで酒を飲みながら唄ったものだが、女性の同僚スタッフを連れて行くと、必ずZARDが唄われたものであった。

ちなみに俺は音楽人気質を持ちながら、売れ線という音楽ジャンルにあまり抵抗を示さない稀有な人種だと思っている。
俺の音楽コレクションは基本広く浅くである。深く入り込むことの興味より、当時からポピュラリズムに興味があったのだろう。

でも、音楽は商業的すぎると面白くないので適当にバランスを取るわけだ。そんな感じでおれのコレクションは存在している。

まあ、洋楽、邦楽問わず聴いてきたが、勉強のためとかで音楽に触れたことはほとんどない。今の俺のCDレコードコレクションは多ジャンルに渡っているが、良いなと思って手に入れた物ばかりである。

ここから本題。

そんなわけで、特別好きでなかったが、ZARDは時代のBGMとしてよく聞いた。時代のBGM?
このような言い回しが、95年ぐらいで終演することになるわけだよな。つまり、国民的な唄とかポピュラリティとしての絶対値がこの時代を境に急速に低下することになるわけだ。
そのあとに訪れる(厳密に言えば80年代から細分化は起こっているわけだが、)音楽のジャンルとしての細分化。
もちろん、細分化は音楽の可能性を広げたり、マイノリティ音楽を救う意味ではいい面もある訳だが、、、

現在の音楽ソースの販売実績は90年代の半分にも満たない。
200万枚や300万枚がぽんぽん飛び出して、ミリオンセラー(つまり100万枚)が当たり前の常識だった時代の90年代から、現在はちなみに100万枚のシングルって、かなり難しいし、アルバムもたまにしかでない。
ZARDの去年発売されたデビュー15周年記念BEST版でも約50万枚(オリコン1位)だぜ!同じZARDのBEST版が90年代で300万枚(オリコン1位)だよ!
まあ時代がリアルタイムかそうじゃないかの差はあれども、同じ1位同士なんだが、すごい差だよな。
これは単にバブルの崩壊のみの理由ではなく、ポピュラリティの喪失が関係していることは明白だよな。

なにが言いたいかというと、「竹内まりや」が今すげー売れてるんだ。俺はそんなに好きではないが、、、
大切なことは、ポピュラリティの高いアーティストが最近のアーティストからは出てないって事なんだよ。
これは音楽の細分化に原因があるのと、業界のデビューへの方法論が保守的であるということなんだよ。

細分化は「ツウ好み」いわゆる特化させる方向へとアーティストを向かわせるので、当然ポピュラリティーは低下する。
業界はその細分化した時代とセールスが悪くなった業界のなかにあって保守的にならざるを得ない。業界のなかにおいてメジャーは特にポピュラリティが絶対使命であるのに、現状の細分化された特化シーンを否定することができない矛盾がある。ここに音楽デビューへの方法論のカオスとロスト感が発生する。

今の音楽業界のリアルタイムアーティストがみな細分化していれば、国民のポピュラリズムの要求先は、大御所といわれるアーティストに向かう訳だよな。
それが「サザンのTSUNAMI」であり、「竹内まりや」であったりする。

ここで結論。

要するに、マジョリティ(ポピュラリズム)を無くしたために、音楽業界全体が沈むということに気づいているだろうか?
言っておくが、マイノリティ(細分化音楽)はマジョリティがあるから成立するのだよ。逆に言えばマジョリティが消失したら、マイノリティは存在意義がなくなるんだ。
昨今の昔の大御所ポピュラリティアーティストの再度の台頭は、その方々への現在音楽シーンのマジョリティ部分ををご負担願わなければならない現状の現れである。つまり、今の音楽にはポピュラリティが欠如しているのだ。そして、時代は必然性としてマジョリティを要求するってことじゃないのか?

このままマジョリティが欠如した状態で進むと、音楽文化自体の衰退につながるように思えてならない。
ライブハウスが今何をなすべきか。
おれは考えている。

BANDマンの諸君!細分化や特化ばかり意識してはいませんか?突き抜け感とよく言うが、これは細分化や特化ばかりを指し示すわけではないんだぜ。

日本の商業音楽を批判することはたやすい。
でもこのような観点で考えることも大切ではないか?
大学時代のの教授が言ってた「もし、2つの立場からぶつかっている物事があれば、マイノリティに正義がある」
いまや、ポピュラリティがマイノリティなんだよ。

音楽を広く浅く、しかも売れ線に抵抗感を感じなかった俺ならではの論調です。同時に俺の業界人としての存在意義だとも感じる。だから、アングラを今の時代において俺は支持しない。

ZARDはポピュラリティがその時代時代の現役のアーティストに存在していた時代の終焉期(おそらく2000年前後に最後のポピュラリティアーティストはいなくなってる)アーティストのひとりだったんだよ。このままではまずいぜ!

坂井和泉さんの死より、これからの音楽シーンの問題点と課題を考えさせられた。

長文読んでいただきサンクス。
ではまた。

2016年11月12日